- 表現とは何か?
- 表現しない人とはどういう人か?
- さらに逆説的に「表現したい人」とはどういった人か?
- 表現する人、しない人の対比
- 「創作しないオタクの意味が分からない」へのアンサー
- 宇多田ヒカルという「表現」者
読んだ。
表現とは何か?
表現とは何か?を考察するにあたり、まず記事の内容を構造化する。
- 宇宙
- 小宇宙
- 自分の中の認識
- 大宇宙
- 世界
- 自然
- 自分の及ばないモノ
- 小宇宙と大宇宙の関係
- 摩擦
- 情報のやり取り可能
- 小宇宙
- 表現
- 表現の本質
- 形而上の行動
- 超自然的な力で大宇宙を変える行為
- 表現の別名
- 呪い
- 祝い
- 寿ぎ
- 祈り
- 表現の特性
- 超自然的な力の使用
- 物理的な変化ではない
- 認識の変化
- 表現の具体例
- 雨ごい
- 豊穣祈願
- 恋愛成就
- 本を書く
- 漫画を描く
- 文章を書く
- 表現の本質
表現とは、形而上の行動だ。その行動により、大宇宙(自分の外の世界)を変えようとすることを目的としている。
そして、表現を人がしたくなる理由だが、『大宇宙』と『小宇宙』の間の圧力差が大きい場合に、人は表現をする。
表現しない人とはどういう人か?
以上から、逆説的に表現しない人がどういった人か類推してみたい。
現状に満足している人
現状の生活に満足しており、外部の変化の必要性を感じない人は、大宇宙と小宇宙の間に大きな圧力差を感じず、表現する必要がないだろう。
社会と自分の価値観が適合している人
自分の価値観や考えが、外部の社会と適合していると感じる人も、圧力差を感じにくい。社会の道徳観と自分の道徳観が一致している人。コミュニティに属していて、そのコミュニティにいることに一体感を感じる人。そういった外部の社会に一体感を感じる人も、表現する必要がない人と考えられる。
生活が安定している人
安定した生活環境に身を置いている場合も、大宇宙と小宇宙の間に圧力差を感じにくいだろう。経済的、社会的に安定が既にある場合、外部の変化はリスクとなり、変化の必要を感じず、表現する必要を感じない。
さらに逆説的に「表現したい人」とはどういった人か?
上記を踏まえると、表現したい人がどういった人か見えてくるかも知れない。
現状に満足していない人
現在の生活や社会に不満を感じている人は、大宇宙と小宇宙の間に圧力差を感じ、表現によって現状の変更を求める。彼らは現状に満足せず、改善や変化を求めるモチベーションを持っている。
自分の価値観が外部と適合していない人
自分の価値観や信念が社会や身の回りの状況と合致しない場合、価値観の不一致を感じ、それを表現し、外部に影響を与えたくなるのだろう。
変化やチャレンジを求める人
安定した生活に満足できず、新たな挑戦を求める人々もまた、大宇宙と小宇宙の間に圧力差を感じ、表現を通じて新しい可能性を求めるだろう。
生活が不安定な人
経済的、社会的に不安定な状況にある人々は、現状の不安定さを打破し、安定を追求するために表現を通じて新たなチャンスや可能性を探るのだろう。
表現する人、しない人の対比
表現しない人は、幸せな人と思える。現状にある程度の満足感を感じられる。
また、表現しない人は、コツコツ自己研鑽を行い、スキルを磨き、それによって世の中を変えていく。
世界を良くしようと貧困を解消するための運動をしたり、砂漠を緑化しようとしたり、国家によって行われる不当な差別を解消しようとしたり、四肢が麻痺して動けない人のために新しい義手の開発をしたり、誰でもプログラムが作れるように、プログラムを作るためのAIを創ったり、医者だったり、建物を作
ったりして、世界を変えていくのは、非表現者だ。
表現する人としない人の決定的違い
表現する人としない人の決定的違いは、表現する人が、表現しない人が行うような自己研鑽やスキルを磨くことによって達成できること「以上」または「以外」の世の中を求めている点だろう。
最初から最強という表現
「最初から最強」系のライトノベルが存在するが、これはおそらく、人間が本来「最初から最強」で生きていくことが難しいからこそ、この種の「表現」が生まれるのだろう。
このような作者は多いが、読者の方が遥かに多く、実は読者たちも「表現」という、超自然的な力により大宇宙を変える行動を望んでいる、と考えられる。しかし、なぜこれらの読者が自分自身で「表現する」ことを選ばないのか?その理由は、表現された作品を楽しむことで十分に満足できるからだ。
だから、表現しない人には、必ずしも表現したい欲求が無いわけではないのだ。ただ、彼らは表現者(自身の小宇宙によって大宇宙を変えようと行動する人々)から提供される作品を楽しむことで、自分自身と外部の世界との間の圧力差を解消できるから、表現しないのだ。また、創造するスキル不足もあるが。
ただし、もし表現しない人々が、表現者から提供されるものだけでは満足できなくなった場合、彼らも表現者側に変わることがあるだろう。実際、作者は元々表現しない人々側であった。
要するに、表現者と非表現者は互いに補完し合う存在であり、上下関係というより、共存する関係にある。創造者が上で享受側が下ということはない。ただし、実際行動する者と行動しない(できない)者という違いがあるのだから、敬意をもって接する必要があることは付言したい。
「創作しないオタクの意味が分からない」へのアンサー
なんで私がこんな記事を長々と書き連ねているかと言えば、下記ほどではないが、以前、創作しない人はどういう心情なんか分かりかねるところがあったから、という理由が一つある。
何で作品描かない(書かない)の?
別に絵・漫画・小説じゃなくても、音楽に気持ち乗せたり動画作ったり考察サイト作ったりとか表現手段は無限にある。
ていうか描きたい!これ吐き出さないと死ぬ!助けて!!みたいにならないってこと?
好きなアニメ見た後は何してても手につかなくて脳が自動で延々ずーーーーーーっとそのアニメのこと考えちゃってもはや苦しくて自分の命や魂と引き換えにしてでもそのことについて何かどうしかしないと、みたいなあれに。
すごくすごくすごく不思議。
何でそうならないの?
この記事の著者は、まさに「表現する」側だ。
しかし、「表現しない」側を考察した今、創作しない側のことも理解できる。
つまり、「小宇宙」と「大宇宙」の圧力差がないか、他の表現者の表現を享受することで圧力差を解消できているのだ。
宇多田ヒカルという「表現」者
以前こんなインタビューがあった。
また、又吉が最も惹かれた曲として「あなた」を挙げ、宇多田の綴る言葉に“祈り”の要素があることを指摘すると、宇多田は「子供の時にいた環境のせい」だと赤裸々に答えた。音楽プロデューサーの父、歌手の母を持つ彼女は特殊な環境の中で育ち、転居や転校もよくあることだった。いつ何が起こるかわからない環境の中で、「安心したら傷つく」「何も信じないようにしよう」と決めたものの、消しきれなかった当時の想いが“祈り”や“願い”、“希望”に繋がっているのだという。
宇多田ヒカルが抱える“孤独”と“祈り” 「初恋」披露した『SONGS』から感じたこと - Real Sound|リアルサウンド
宇多田ヒカルはまさに、自分の内にある「小宇宙」と、ままならない外部の『大宇宙』のセカイとの間の圧力差が大きいがために、それを歌詞や楽曲として、「祈り」「願い」「希望」という形で、表現している人だ。
彼女の創作に対するその圧倒的モチベーションについては、以前の記事も参考になるかも知れない。
人生において、真に追求したい目標に対する「やる気」は、執着、崇拝、妄信といった感情から生まれることが多々ある。これらの感情は~人生全体の方向性を決める重要なカギとなっている。
しかし、この「やる気」の源泉について深く考えてみると、世間一般の損得や競争とは違った側面が見えてくる。損得や競争は、時に我々が本当に追求したいものから目を逸らさせることがあるのだ。
多くの人々は、損得や競争の世界で成功を収め、その後に真にやりたいことへと進む道を選んでいる。この道に全く問題はない。しかし、本記事で取り上げたいのは、執着、崇拝、妄信が強すぎて、損得や競争の世界に興味を持てない人々だ。
彼らにとっては、自分の真の目的に対する強い信念・情熱に従い、自分の内なるやる気を追求し、それに忠実であることが幸福への道ではないか。
彼らが、自分の内なるやる気を追求し、それに対して全身全霊で取り組む勇気を持つことを、願ってやまないのである。
真の「やる気」の源泉 -執着、崇拝、妄信- - ダグラスの日記
彼女が、自分の内なるやる気を追求し、それに対して全身全霊で取り組む勇気を持っていることは疑いない。
しかし、「自分の真の目的に対する強い信念・情熱に従い、自分の内なるやる気を追求し、それに忠実であることが幸福への道」と述べたが、彼女は幸福になっているのだろうか?
宇多田は宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』から〈なにがしあわせかわからないです〉という言葉を引用し、今苦しんでいる状況も先を見つめれば幸せに向かっているかもしれないから、今は今だけで判断できない、という考えを持っていることを明かしていた
宇多田にとっての“初恋”が意味するもの - Real Sound|リアルサウンド
幸福かどうか分からないが、少なくとも「幸せに向かっているかもしれない」と考えている。今後も「大宇宙と小宇宙の間に大きな圧力差」を感じ、「表現」しつづけるのだろう。彼女が引き続き「表現」「形而上」の力によって、多くの人々を癒し続けることは間違いない。
だから、せめて「表現」を享受する側は、表現者がもたらしてくれた恩恵への感謝や敬意を示し続けて欲しいと願う。
この記事がまさに、そのような「表現」「表現者」への感謝・敬意を示すものである。
(そして、この記事自体も「表現」なのだ)
(しかし、私も具体的な行動でも示さないといけないな・・・)
(せめて、楽曲は買い支えていこう・・・)