ダグラスの日記

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「Angel Beats!」を見た

とある方面から、「生きる意味、平凡に生きることが出来てる現状のありがたみをひしひしと感じる作品」とおススメされ、アニメ「Angel Beats!」を見た。

 

www.angelbeats.jp

 

視聴後に感じた作品のテーマは

「理不尽な人生を肯定し、受け入れて前に進もう」

だと感じた。

 

音無が直井に叫んだ

そんな紛いもんの記憶で消すな!

 

俺達の生きてきた人生は本物だ!

何一つ嘘のない人生なんだよ!

みんな懸命に生きてきたんだよ!

そうして刻まれてきた記憶なんだ!

必死に生きてきた記憶なんだ!

それがどんなものであろうが、俺達の生きてきた人生なんだよ!

 

お前の人生だって、本物だったはずだろ!

と言う言葉からも、「理不尽な人生を肯定し、受け入れて前に進もう」という強い意思がこちらの心に突き刺さってくる

 

SSSにいるメンバーは全員、自分の人生を肯定・受け入れず抗っている。

ゆりは

人生はあたしにとって、たった一度のもの。それはここに、たったひとつしかない。これがあたしの人生。誰にも託せない、奪いも出来ない人生。押し付けることも、忘れることも、消すことも、踏みにじることも、笑い飛ばすことも、美化することも何も出来ない。ありのままの残酷で無悲なたった一度の人生を、受け入れるしかないんですよ。

だから、あたしは戦うんです。戦い続けるんです。

だって、そんな人生、一生受け入れられないから。

という信念を持っている。

「受け入れるしかない」と分かっていても、絶対に受け入れず、自分の理不尽な人生に抗い、神(天使)に抗うことを半ば必然的に選んだ。

そんな彼女やメンバーがどうやってその「理不尽な人生」を乗り越え、受け入れていくのか、それが本作の見所のひとつだろう。

 

日常的な理不尽

少し視点を変えて、日常的な理不尽について考察してみたい。
日常的で卑近な理不尽の例を挙げれば、職場の人間関係や家事疲れや育児ストレス、親の介護など、思い通りにいかない理不尽が生活にも溢れている。

 

これらの理不尽にどう向き合うべきか?

精神が病んでしまうほどのストレスがあれば勿論直ちにその場から離れたほうがいい。一度壊れた精神はなかなか元には戻ってくれないのだから。

一方、実はものの考え方を変えるだけで、理不尽だと思っていたことが、実は「経験のバリエーションを増やす豊かさに繋がる機会だった」ということもある。

 

こんな記事がある。

blog.tinect.jp

豊かさとは「達成する」「手にする」ことと考えている人が多いのに対して、私は豊かさとは「経験のバリエーション」と考えているからだ。

わかりやすく「◯◯があるので、豊かです」「◯◯を手に入れたので、豊かです」と言えないのである。

そうではなく「豊かでいる」「豊かに過ごす」が正しい言い方だ。

 

例えば上にあげた登山では「頂上に到達すること」で豊かになるのではない。

毎回異なる経験を得る、登山そのものが「豊か」なのである。

仮に天候が悪く、頂上に到達する前に引き返さざるを得なくなったとしても、それは経験のバリエーションを増やしているので「豊か」なのだ。

 

blog.tinect.jp

「経験のバリエーション=豊かさ」という価値観を持っている人にとって、子育てはそうした経験の宝庫だ。

登山や釣りと同じく、必ず上手くいくものではないし、間違いなく苦労もするけれども、苦労のしがいはあるはずだ。

子どもの変化だけでも驚きの連続だが、その子どもに向き合う自分自身のライフスタイルやスキル、考え方まで変わっていくのだから、経験のバリエーションの豊かさという点では類を見ないものになる。

 

もちろん裏返しに捉えるなら、子育てに深く関われば変化は避けられない、ということでもある。

経験のバリエーションを豊かさとは感じていない人、変化をできるだけ避けて生きたい人には、子育てのそうした側面は苦痛かもしれない。

 

「経験のバリエーション=豊かさ」と考えた時、かなり広い範囲のものが豊かさにつながっていることに気づくだろう。

正の方向の経験だけではなく、負の方向の経験すら、その人の深みを増すことになるだろう。それが年輪を重ねるという事なのだろう。

 

音無も直井もゆりも他のSSSのメンバーも、そもそもあんな過酷な理不尽な目になんて合わない方がいいに決まっている。

しかし、一度起きてしまった以上は、そこで止まるか、あるいはその経験を受け入れて自分を変化させ、再び前進するか、決めなければならない。

 

決して幸せな出来事ではなかったその経験も、豊かさの一つではあるのだ。

彼らはそんな理不尽な経験を、無かったことにするのではなく、受け入れていった。

負の経験による豊かさ、仲間たちと接することで生まれた人生の楽しさという経験による豊かさ、その両方を抱えて、前へ進んで逝った彼らの姿に、感動してやまなかった。